藤田家住宅の入来町の位置、そして・・・文化的価値の概論
広島大学大学院 助教 水田丞
・入来町麓の増田家住宅から南に約1.5㎞、日の丸交差点から約200m
藺牟田方面に左に進みます。しばらく行くと牟多田集落(バス停「布泊
(ふどまり)」があります。ここに残る藤田家住宅は、薩摩藩の郷士住宅
の古い姿を伝えています。敷地は周囲を田畑に囲まれ、東側に(後川内
川)が流れ、小高い丘の上に開かれています。また、南側から東側に道
路が走り、西側は隣家、北側は一段高くなった畑に接しています。
敷地の北寄りに主屋(しゅおく)がたち、それに隣接して棟(屋根の
最も高い部分)の向きを直行させて付属屋が連なっています。主屋の南
側は広い庭に接し、東側には高木が生い茂り、その間に明治14(1881)
年の年号がある氏神が祭られており、南東面道路境に石垣に【昭和3
(1928)年建設】を築き、石門【昭和7(1932)年建設】が設置されてい
ます。
・主屋(しゅや)はオモテ、ナカエの二つの建物からなり、その間をテノ
マで繋いだ形式で、江戸時代の薩摩藩の住宅に特徴的な別棟型棟を別々
にした二つの建物(オモテとナカエ)をテノマで繋ぐ)で構成されてい
ます。現在の主屋の屋根は瓦葺ですが、当初は入来麓の旧増田家住宅と
同様茅葺でした。また、年代を示す棟札(上棟式の際に屋根の上に上げ
る年号や施主を記した細長い板)等が見つかっていませんが、座敷にあ
る床の間の奥行き、柱や梁に残っている手斧(ちょうな、カンナが用い
られる以前の木材を仕上げる道具)の痕跡や加工の仕方、主屋の間取り
等、鹿児島県内の他の住宅と比べると、18世紀の後期から19世紀の初期
の建造物と考えられます。鹿児島県内に残る郷士の住宅でも最も古い時
代の建物の一つです。
鹿児島県内の「文化財の価値」と比較して、どのような見解がだせか・・・
1.建築年代が古いこと
薩摩藩内の古い住宅の遺構は少ない。
現在確認されている最も古い住宅は、国の重要文化財(国重文)に
指定されている祁答院住宅(伊佐市)で、オモテが18世紀初期と推定
されています。
しかし、祁答院家住宅のオモテは、後年の改造が大きく、当初の姿を
とどめていません。
(宮沢智士編『日本の民家第4巻農家Ⅳ』学習研究社(1981)
・二階道家住宅(鹿屋市高山町)【文化7(1810)年】(国重文)
・旧黒木家住宅(宮崎県高原町)【天保6(1835)年】(国重文)
・長坂家住宅(薩摩川内市入来町)【江戸後期】
2.座敷が狭いこと
藤田家住宅のオモテには座敷があり、大きさは4畳です。これは鹿児島
県内の他の住宅の座敷が6畳や8畳程度であることに比べると、非常に
狭く、主屋の古さや「おもてんかした」と言う
名称から考えると、オモテの間取りは、広い部屋に格式の高い4畳の
部屋をつけたものと考えられます。
すなわち、4畳そのものが床の間であり、格式の高い上段の間のような
存在であったと考えられます。
以上のようなことから、薩摩藩の他の郷士住宅に見られない珍しい
事象であると同時に、時代の古さを鑑みると、薩摩藩における座敷の
成立過程を考える上で、貴重な遺構であると考えられます。
藤田家住宅はどこが素晴らしいのでしょうか
薩摩川内市から調査委託を受けた土田充義鹿児島大学名誉教授、水田丞
広島大学大学院助教(現在)による調査結果を次のようにまとめられ
ました。
1.現在は瓦ぶき(創建当初は茅葺)ですが、主屋は木造平屋3棟で構成
され、薩摩藩の別棟型住宅の成立を考える上で、貴重な存在である。
2.住宅の特徴から18世紀初頭半ばから19世紀初頭にかけての創建と考え
られている。
3.オモテ、ナカエ、テノマ(樋の間)は、施工・加工(工作)状況から
見てほとんど同時期に建築されていると判定されていますが、このよ
うに3棟同時に建築されるのは非常に稀なことである。
4.オモテ、ナカエの2棟共に特徴的な梁組であり、梁には鱗のような
「手釿(ちょうな)」もしくは「槍鉋(やりかんな)」の加工跡等が
ある特徴がある。
5.オモテの「下の間座敷(10畳)」に格式ある4畳の部屋をつけ、その
4畳部屋そのものが床の間や上段の間のような存在としていたのだろ
うと推定されている。
6.使用されている道具等から18世紀初頭半ばから19世紀初頭に創建され
たと推定されることから、
鹿児島県内に残っている郷士の住宅でも最古級の一つであると言
える。

